【続報3】アズベリー大学リバイバル現地リポート 後編

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15日間奉仕した学生アナ・ローレンさんに聞く

盛岡聖泉キリスト教会 中野與子牧師の現地取材

 盛岡聖泉キリスト教会の中野與子牧師がリバイバル(聖霊刷新)が現されているアズベリー大学を訪問し、現地取材した特集記事の第2弾。現地を訪れた人々へのインタビューを紹介する。
 後編では、元アズベリー大学の学生で、15日間のリバイバルに参加し、奉仕したアナ・ローレンさんに話を聞いていただいた。

すべては王なるイエスさまのために

 こんにちは。私はアナ・ローレンといいます。昨年5月アズベリー大学を卒業し、今はケンタッキー州立大学で法律を学んでいます。でもリバイバルが起こった初日から毎日アズベリー大学に来ています。ここで見たこと体験したことをちゃんと言葉で言い表せるか分かりません。人の言葉では、収まり切れないことがここで起きており、神さまがなされたことを語り切る事も完全に理解することもできないと思うからです。
 ここに来て、私は何度も泣き、喜び叫びました。友達のために祈り、座って一人で祈り、立ち上がって踊り、床にひれ伏し、4万ケースもの水を運んだりしました(その数は大げさかもしれませんが、とにかく相当たくさん運びました!)。
 メインチャペルに入って、祈り、礼拝をささげるというのは、アズベリーでの学生時代の4年間毎週続いていたものですが、私にとってはいつも特別な時間でありました。自分がここの学生であった時にも、たくさんのチャペルでの祝福を経験しました。私はここで多くを学び、弟子としての訓練も受けましたが、今は同じように訪れてくる若者たちのために、祈り、教え、助け、仕えるということをさせていただき、これこそ神のみからだの働きであり、もっとこのようなことがなされるべきだと思いました。
 国籍を超え、政治的立場を超え、人種や言語の違いを超えて、英語を話せない人々もたくさん加わる中、みんな一つになって主を礼拝するのを見て、普段から祈っている主の祈りの中に、「御国を来たらせたまえ」と祈りますが、神さまの御国がどのようなものか、この世の仕組みしか分からない私たちにとって、これは一瞬ではありますが、天の御国はこのようなものであると見させていただいたような気がして、これこそ、私たちの地上にも実現されるべき神の御国であるべきだと思いました。
 そして、皆の関心の的はイエス・キリストのみ、神の栄光を見させていただくことのみで、自分たちの事でもアズベリーのためでもなく、王なるイエスさまがすべてのすべてとなられ、この方の前に文字通り身を低くし、ひれ伏すことができるとは何と幸せなことだろうと思いました。
 私の頭の中も自分自身も吹き飛ばされてしまったような感覚に陥りました。神さまがこの世でお望みになった場所に私を加えていただけたことを心から感謝しています。そして訪れる方々のために働かせていただく中でどんな小さなことにも神さまは祈りに答えてくださり、助け導いてくださり、ボランティアたちの食事の事さえも心配してくださる神の御手のみわざも細部にわたって見させていただいたことも感謝しています。
 私がこれまで知っていたつもりの神さまが、はるかに幾倍も大きな方であったことを知らせていただきました。誰も考えのつかない方法で、神さまは必要を満たしてもくださいました。また、神さまが備えてくださったリーダーたちが本当にへりくだって、神さまからの知恵を持って判断を下し、導いておられる姿にも感動しました。
 礼拝を導いてくださったワーシップリーダーたちにも感謝しています。ただ神を礼拝するために、誰が先頭に立つべきかとか、遠くからわざわざ来たとか一切関係なく、聖霊さまの働いてくださるままに、神さまの愛を皆が全身で受け止めることができるようにと、礼拝を導いてくださったことにも感謝しています。おそらく私は50年後もこの出来事を皆に話し続けていくことでしょう。

ただ主の臨在に留まりたい

 私は2月8日の日、自分の大学での授業が終わって、友人たちとコーヒーを飲もうとこちらに来ようと連絡を取ったところ、午後2時になるというのにまだチャペルが終わってないと言われ、いつもと様子が違うのは奇妙だと感じつつも、礼拝が続けられているのは良いことだと思いました。
 でも、構内で誰も人を見つけることができず、これはますますおかしいと思い、ヒューズ講堂(メインチャペル)から音楽が流れているのを聞き、チャペルの中に入ってきました。私は到着した時間は4時でしたが、そこには何百人の生徒たちがいました。その日から、私は大学での法律の授業を終えると、すぐにアズベリーに向かうという日々を毎日送ることになりました。それだけこの主のご臨在のある場所に、ただただ留まっていたいと思わされたからです。
 神は確かに生きておられ、私たちの祈りを聞かれ、神さまは、ご自分の民を決して見放したり見捨てたりされてはおらず、すべてのことの内に働いておられ、回復と修復のみわざを成してくださっていること、そして私たちをその働きの中に加えてくださっていることを示してくださいました。
 私の信仰は本当に深められ、実際的な行動の中で、イエスさまへの愛を形にしていくことを学んでいます。ここは私にとって霊的なわが家で、それは単に頭で思うだけでなく心の底から思うようになりましたが、この短い期間に5万人もの人々が一気にこのウィルモアの町を訪れに集まり囲むということがあったということは、私たち一人一人が街に出て行き、職場に行き、家族親族の元に遣わされ、あらゆるところに遣わされ、神から受けた愛を伝えようと出て行くなら、どれだけの人々が神に出会い、触れられ、救われることができるのだろうかと、私たちはもはや以前の自分には戻れなくなっている者として、さらなる神の働きの広がりの可能性に、期待感、ワクワク感で一杯になっています。自分たちのそれぞれの教会に戻っても、これでのような礼拝の仕方にはならないでしょう。私たちの世代がまたこうして選び用いられたということは特別な恵み、特権で、これまでの人生の中で最も誉れ高いことであると感じています。
 私は今22歳で、ちょうどZ世代の真ん中にいます。私は今法律を学んでいますが、さまざまなエリアで低い立場に置かれている方々のために弁護し、法を通して助けたりお手伝いさせていただきたいと学んでいます。またそのような方々が神にあって用いられていくのを見させていただくことを期待しています。
 このリバイバルが始まって、3、4日間はケンタッキー州のあらゆる地域から若者たちや人々が集まってきていましたが、長い列に並んでいる間に、一生の友達になってしまったり、長年会ってなかった友人と再会したり、近くに住んでいたのに、お互いの存在にこれまで気づかず、地元に帰ったらすぐ再会したなど、興味深い逸話がたくさんあります。

主の栄光を持ち運ぶ

 使徒の働きは、ある意味リバイバルのためのハンドブックであり、聖霊に満たされたクリスチャンたちがそれに学び従うべきだと思いますが、1章8節で、あなたがたは私の証人になるとあるように、まずは小さな学校での集まりから始まり、全ケンタッキーの地域、それから全米へ、そして全世界へと遣わされていくこと、実際に出て行って宣べ伝えるよう召されていること、そしてそれぞれの地域教会に戻っていくにも、どこに行くにも、主キリストのご臨在が伴われていることを意識しなければならないと思わされています。また、ここで霊的にあまりにも祝されて、他の地域の教会やクリスチャンたちの目に見える現状で、自分があたかも霊的に優っているとか思い違いしてしまう可能性に注意することは大切だと思います。
 しかし、ここから外に出て行くことは、変貌山と呼ばれる場所で主イエスの栄光をモーセやエリヤのもののと一緒に仰いだ弟子のペテロたちは、あまりにも素晴らしい体験と光景に、いつまでもそこに居たいと幕屋を立てようしましたが、実際はその栄光の場所からこの世の現実、日常生活のさまざまな困難で一杯の場所に戻るかのように谷まで降りて行き、最後には主が十字架に架かられ、それを見させられるというところまで行かなければなりませんでした。でもその先には主のご復活が待っているのも私たちは知っています。
 私たちは一時だけ、高い山に登り、主の栄光を仰がせていただきましたが、この山の下には多くの人々が主の救いを求め待っていて、私たちは主の栄光と恵みとご復活の勝利、希望を知っている者たちとして、伝えて運ぶ責任があることをはっきり意識させられています。そして聖霊さまが共におられ、あらゆる恵みと力をもって助けてくださることも教えていただきました。