白馬スネルゴイオンラインキャンプ【速報7】3/5 閉会聖会

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白馬スネルゴイオンラインキャンプが3月3~5日、祝福のうちに進められ、最終日となった5日午後1時から、閉会聖会が行われた。

 会衆賛美と預言の後、ブラジルの松本弘子宣教師が証しした。ラ・スポーザ、Giftsの特別賛美の後、テモテ小林牧師、パウロ北野牧師、パウロ弓野牧師、ペテロ永藤牧師がショートメッセージを取り次いだ。
 

ラ・スポーザ
Gifts
テモテ小林牧師


 後半賛美と預言の後、パウロ秋元牧師が主講師として講壇に立った。 秋元牧師は、本キャンプの全聖会で一貫して開いてきた出エジプト記34章10節を通して、メッセージした。

 主講師のパウロ秋元牧師

 再臨が近づき、ゴールはあそこだ、と見える段階まで今は来ている。このキャンプはまさにその継ぎ目だ。マーリン・キャロザース師が「1人が100万人をキリストに導く」と語られた働きには、コンピューターとインターネットが大きく用いられる。ゴールが見えた今、最後の戦いが始まるが、それは主の戦いであり、神のことばの成就の時となる。その中で見ていくのは、決して負けることのない、領地の占領と支配のわざにおける、神の勝利と栄光だ。
 神の戦いで何が起きてくるのか。それが今、主から示されているこの聖書箇所(出エジプト記34章10節)に書かれてある。「恐るべき」「主のわざ」を「見る」という事だ。
 聖書のことばをあいまいにしたり妥協したり退いたりせずに、そのことばに立つことによって中傷されたとしても構わない。それは、主に従った故の栄光の迫害であり、主にあってはずかしめを受けるのにふさわしい者としてくださったということだ。
 われわれは、まだその「恐るべきわざ」を見ていない。また、昨日語ったヨハネの福音書14章12節に書かれている「わたし(主)の行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」ということも行っていない。エペソ人への手紙1章18節にあるように「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」を受けていない。同19節の「(神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く)神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか」をまだ完全には体験していない。
 しかしその中で、このまま行けるぞと分かってきたことがある。それは「恵みと信仰」だ。十字架による罪の赦し、神によって義とされること、神の奇跡は恵みだ。しかし、「恵み」だけあっても何も起こらない。「恵み」が成就し現されるためには「信じる」ことが必要だ。
 ヨハネの福音書14章12節でも「わたしを信じる者は(わたしの行うわざ…よりもさらに大きなわざを行います)」とあり、エペソ人への手紙1章19節でも「私たち信じる者に働く…」とある。
 聖書の記述では、ヨシュア、ダビデ、エリヤなど聖書に登場する器を通して、神の栄光が大きく現されたのは、彼らが「信じた」からだ。信じた人に奇跡が起こり、栄光が現され、わざが現される。
 
 われわれが力のない者であることを分からせることを通して、「自分に頼るな」と主は教えておられる。自分ではなく、神さまの約束に信頼し、従うことが必要だ。
 問題解決の際、与えられた神さまのことばを「信じる」ことが必要だ。その時、恐れ、不安、心配が起きるが、取り除いていく必要がある。それらの下にあるものは不信仰であり、それを取り除く必要がある。そして、「信じる」のだ。

 日本の教会にリバイバルが起こり始めており、われわれもその歩みに入っている。それを「信じる」のだ。これまでも私たちの信仰を通してある程度のわざが起きてきたが、今、示されているのは、さらに次の歩みとして、それ以上に、ダビデのように、ヨシュアのように、パウロのように、ペテロのように「信じる」ということだ。ダビデのように、ヨシュアのように、パウロのように、ペテロのように信じる。神のことばを信じるなら、救いとわざが起きてくる。

 TLEAはかつて語られた通り、日本で最大の教会となり、全国で832の教会設立が起き、全世界における宣教の働きが進む。そう公言すると、「自己中心的なおかしな教会だ」と言われるかもしれないが、批判されるのは健全なことだ。教会の召しとして神さまが言われたことははっきり出すべきだ。「聞き従い」や「預言」のどこが悪いのか。そして、かつて批判が集中した時、そうだったように、再度、世の意見や常識に妥協せず「キリストに対して愚かに」(コリント人への手紙第一1章参照)なろう。
 「継ぎ目」であると語られたこのキャンプは特別であり、聖霊が働かれるので次々に示しや導きや力が与えられる。なぜなら、「恐るべきわざが起きてくる」「栄光が現されてくる」「勝利の働きの初めである」「皆さんを通して神のわざが起こり始めている」「再臨に至るまで全世界を覆う大きな働きとなる」「主の勝利の歩み、戦いの歩みの中に入った」と神さまがはっきり語っておられるからだ。
 その「戦い」には、主が中心におられ、導き、わざをなされるが故に、圧倒的な勝利、「驚くべきわざ」が現される。その栄光はただ主のものだ。

神の栄光が現される故に、ともにハレルヤと告白した

 最後に、ともに「ハレルヤ」と主をたたえる時を持ち、閉会聖会が豊かな主の祝福うちに閉じられた。