【特集】白馬スネルゴイキャンプ2023 聖会メッセージ紹介④

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3月1日夜の聖会
信仰を通して キリストのわざ・キリストより大きなわざが現される

白馬スネルゴイキャンプが2月28日~3月2日、ホテルグリーンプラザ白馬で行われた。キャンプ中の聖会などでのメッセージを紹介する。4回目は3月1日夜の聖会について取り上げる。

 夜の聖会では、会衆賛美と預言の後、ブラジルから松本弘子宣教師、ハワイからエルサレム渕野牧師、そしてアズベリー大学に赴き実際に現地取材をして来られた盛岡聖泉キリスト教会の中野與子牧師が証しに立った。松本宣教師、渕野牧師は各赴任地での近況について証しし、中野牧師はアズベリー大学でのリバイバルについて実際に肌で触れて来た体験を語った。
 エルサレムが特別賛美をした後、パウロ弓野牧師、パウロ北野牧師、ペテロ永藤牧師がショートメッセージを取り次いだ。

 パウロ弓野牧師 マタイの福音書25章23節

 ここでは各一人一人に委ねられた賜物のことが書かれている。神さまが私たちにどれだけ素晴らしいものをくださっているか、私たちは認識するべきだ。
 そして、賜物は用いることが第一のポイントとなる。5タラント預かった者も2タラント預かった者も共に忠実に用い、主人に喜ばれている。1タラント預かった者は地に隠し、結果、主人に叱られてしまった。しかし、1タラントといってもわずかなものではなく、1タラントは6000デナリ、1デナリが1日の日給分なので1万円と仮定すると6000万円分、約20年分の給料に相当する。
 神さまはリバイバルのご計画のために私たちに大きなものを預けてくださっている。人の力はたかが知れているが、賜物を用い、主に忠実に聞き従う時、神がわざをなされるのだ。リバイバルに向かって忠実に進む必要がある。

 パウロ北野牧師 テサロニケ人への手紙第一5章21節

 TLEAでは、かつてトロント・ブレッシングやペンサコーラで起きたリバイバルと呼ばれる働きについて見分ける立場を取ってきた。
 私たちは御霊の賜物の働きに関わってきた者たちとして、正しく見分け、真に神のものかどうかを見極めていく必要がある。
 また、神に聞き従うことが土台となる時に、私たちは正しく見分けることができ、賜物の働きを全うしていくことができることを覚えたい。

 ペテロ永藤牧師 テサロニケ人への手紙第一5章16~18節

 歴史には(神さまにあって)流れがあり、聖書も流れで見ていくことが必要な面がある。
 テサロニケ人への手紙第一は、キリストの再臨、終わりの時代を想定される中でメッセージが書かれており、その流れの中でこの5章16~18節をも見ていく必要がある。
 かつてマーリン・キャロザース師(『獄中からの讃美』著者、感謝と賛美の器)は、「終末の時代では、感謝と賛美の教えを知らなければ歩みを全うできない」と語られた。また、同時に「1人が100万人をキリストに導く」ような救いの時が来るとも語られた。私たちは、主の働きに期待していく必要がある。
 そして、このみことばにあるように、①私は喜んでいるか②私は祈っているか③私は感謝しているか―を確認し、基本的信仰生活の土台の中で、歩みを進める必要がある。
 感謝の教えをやり始めることは、天に向けてはしごで登っていくようなものだ、とマーリン師は語られた。途中で厚い雲の中に入るような経験をし、それが惑いとなって多くの人がやめていってしまうが、はしごを登り切り雲を抜けると、その先には太陽の光が輝いている。私たちもそのように歩みを全うし、主の栄光を見る者となっていくべきである。

 後半賛美、預言の後、パウロ秋元牧師がヨハネの福音書14章12節からメッセージを取り次いだ。

 前の日曜日(2月26日)、主日礼拝の際にアズベリー大学に実際に行かれた中野與子牧師に、インターネットで現地から生中継をしていただいたが、これには主の手があると感じさせられた。
 アズベリー大学のリバイバルでは、しっかりとした聖書観に立ち、悔い改めや祈り、感謝と賛美などにポイントがあり、私はこれは主からのものと感じている。
 白馬スネルゴイキャンプも、終末のリバイバルの際にわれわれも用いられ、対応できるように学び、訓練を受けるためのものだ。
 そして、私たちはこれまでの歩みの中で、ルーマニアなどで実はリバイバル的な動きに触れている。その中での主の臨在に触れ、狭い場所で超満員となった集会に参加した。興味深かったのは、リバイバルが起きている場所では、われわれの(日常の)奉仕の力を超えて、リバイバルにおける主のわざがわれわれを通しても現わされたことだ。フィリピンのクルセード、ウガンダでの約3000人の集会、ケニアでの集会などでもそのような聖霊の働きがあり、もし死人がこの場に運び込まれたならばよみがえるのではないかとさえ思えたほど、聖霊の働きが強く現された。
 主が強く臨まれる時、たとえわれわれが不十分であったとしても主がみわざをなされるのである。そして、これから、イエスのわざを行い、それよりもさらに大きなわざを行う、そのようなことが起こってくるのだ。
 マーリン師は「1人が100万人をキリストに導くようになる。これは希望ではなく主からの示しだ」と語られた。世界的に有名な某預言者がこの後「20億人が救われてくる」と語られたそうだ。
 私は、その土台となるみことばがこのヨハネの福音書14章12節であると考えている。
 かつてチョー・ヨンギ牧師やラインハルト・ボンケ師らのようにレベルの違う働きをされた主の器がおられた。私は、主に「彼らは、自分を通して神のわざ、奇跡、多くの救いが起こることを信じていました。あなたは信じていますか」と問いかけられたことがあった。
 われわれは、われわれを通してキリストよりも大きなわざが起こると信じているだろうか。そのわざは訓練を受けてそうなると、聖書は述べていない。(もちろん訓練は必要だが)信じる時にそうなると言っているのだ。主のことばを信じ、主に従って歩んでいきたい。